なずな
育児をテーマにした小説らしい、というのは読む前から知っていたのだけれど、著者の洗練された文体の印象から、「堀江敏幸」と「育児」が、わたしの頭のなかで、どうしても結びつかなかった。
読みはじめて、納得。
たしかにこれは「イクメン」の物語で、同時に、ファンにはたまらない堀江流スパイスがたっぷりかかった長編小説なのでした。
独身で、育児の経験もない主人公菱山が、ひょんなことから、生まれて間もない姪っ子、なずなを預かることに。
周囲の人を巻き込んで、男手ひとつで菱山の奮闘がつづく――という、あらすじにしてしまえばそれだけのストーリーなのだけれど、見事なのは、なずなを中心に人のつながりが生まれ主人公の周りの景色が変わっていく、そのディテールの描きかた。
「なずなが来てから私の身に起きた大きな変化のひとつは、周りがそれまでとちがった顔を見せるようになったことだ。こんなに狭い範囲でしか動いていないのに、じつにたくさんの、それも知らない人に声をかけられる」
昼夜の別ない授乳とオムツ替えで寝不足になりながら、ベビーカーを押して取材に出かけるうち、菱山は、今まで気づかなかったあたらしい町の表情を発見する。
主人公の脇をかためる魅力的な登場人物たちの存在に、「こんな町で子育てができたらいいなあ」と憧れさえ抱いてしまう。
なずなが初めて涙をこぼす。笑う。寝返りをうつ。喃語が出る。
その生命力に、周りの大人たちはひきつけられ、心を動かし、一喜一憂する。
そして菱山は思うのだ。
「世界の中心は、いま、《美津保》のベビーカーで眠るなずなの中にある」
4百ページを超える長編を最後まで読みきったら、何だか勇気が出て、夏に生まれてくる赤んぼうをむかえるのがすごく楽しみになった。