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矢車草(伍代夏子)/徳久広司先生模範歌唱
「矢車草」を作曲した徳久広司先生のご指導です~ CD1枚/カセットテープ1本にうまく歌うためのコツ・ポイントが手に取るようにわかる...SS版ガーディアンヒーローズ
ガーディアンヒーローズ公式サイト→http://ss.sega.jp/gh/マンチカンの赤ちゃん♀④~ブリーダーランド掲載中~
2012.8.8産まれの可愛い子猫ちゃん♪ 飼い主さん募集中(^O^)Thrill Is Gone(スリル・イズ・ゴーン) cover MIH 2015 5 5
カラオケを作った後に、友達に歌ってもらい、3人の仲間でギターにて、いいあんばいのアドリブを入れました。【Price Garden】 ブレーキ マスター シリンダー ATV 四輪 バギー (1.左右(ブラック))
使用に問題なく1ヶ月しても異常なく動作しています。値段も安かったので良かったです。
LED イルミ 高輝度 フレキシブル チューブ ライト 省エネ 12V 防水 120cm 同色 2本 セット (イエロー)
まだ取り付けしていませんが 電気系パーツには 取扱い説明書 配線図 が欲しいです
もうダマされないための「科学」講義 (光文社新書)
現代は自然科学抜きでは成り立たないが,高度に専門化した科学的知見を一般市民が身につけることは不可能である。かといって東日本大震災や原発事故の経緯を見ると,専門家に任せておいて良い問題とも思えない。そこで市民には,専門家やメディアから発信される情報の価値を見極める能力が要求される。
上記のような問題意識に基づいて,4人の執筆者がオムニバス形式で各章を担当しているのが本書である。しかし各章ごとの難易度に差があるうえ,扱うテーマが部分的に重複していたりしているため,本としての完成度は低い。たとえば,本書の2章をよく理解できた読者は,あえて1章を読む必要がない。
1章(菊池誠)と2章(伊勢田哲治)が扱うのが,科学と疑似科学をめぐる問題である。科学哲学でいわれる「境界設定問題(科学と疑似科学は区別できるのか,できるとしていかなる基準で区別するのか,を扱う問題)」が念頭に置かれているが,2章の著者はすでにこの問題に対して,
『疑似科学と科学の哲学』
の中で一応の解答を示している。本章はこの解答をさらに深化させたものである。もちろん,上記の本を読んでいなくても理解出来るように書かれている。
2章に比べると,1章の出来はあまりよくない。そもそも何が言いたいのか,言い換えればどのような読者を想定しているのかが明らかではない。好意的に解釈すれば,
・自分は一応は「科学」側の人間だが,疑似科学(ニセ科学)のどこがいけないのか,理論武装しておきたい
という人に向けられていることになるのだろう。この意味で1章は,いわば身内に向けられたプロパガンダであって,見解を異にする人たち(「ニセ科学」側の人)を説得したり,"転向" させたりするだけの攻撃力を持っていない。それ自体は悪いことではないにしても,肝心なところを端折ったり,論点をすり替えたりしているので,結果的に高い評価はできない。
3章(松永和紀)と4章(平川秀幸)の関係も,1章と2章の関係とほぼ同様。ここでは,
・科学技術に関する正確で適切な情報を,非専門家も含めた一般社会で共有するにはどうしたら良いか
という問題について述べられている。
3章が具体例として紹介するのは,食用油「エコナ」出荷停止問題(2009年)と,遺伝子組換え食品に関する問題である。個別の事例に関する問題はそれなりに面白いが,生じた問題についてすべてマスコミの責任問題として論じているために,結果的に漠然とした主張となっている。たとえば105〜106ページで引用されている朝日新聞の記事は,事実を端的に報道しているだけで「誤報」や「偏向報道」と言えるようなものではない。もちろん全然問題ないというわけではないが,そもそも「事実を過不足なく伝達し,しかも誤読の余地が一切ない報道」というものが存在するのか? むしろここで問題とすべきなのは,読者(消費者)のリテラシーであると考えるのが素直だろう。原因の所在と責任の帰属を混同して,なんとなく叩きやすいところを叩いてお茶を濁すのは,いかにもジャーナリストらしい安直な態度だ。
4章が扱うのは「科学技術コミュニケーション」(p.156)の問題。今までの科学技術コミュニケーションは,専門家から市民への一方向の知識伝達に重点が置かれていたが,今後は双方向のコミュニケーションが重視されなければならない,というのが本章の趣旨である。なぜそんなことをする必要があるのか,具体的にどんな制度を構築するのか,といった点について詳しく述べられている。
4章については以下の本
戸田山和久『「科学的思考」のレッスン』
でもほぼ同内容のことが述べられていて(第2部),両方読めば理解が深まる。
巻末の付録(片瀬久美子)は,東日本大震災・原発事故の後にネット上に流れたデマや,これに便乗したあやしい商売を収集したもの。
上記のような問題意識に基づいて,4人の執筆者がオムニバス形式で各章を担当しているのが本書である。しかし各章ごとの難易度に差があるうえ,扱うテーマが部分的に重複していたりしているため,本としての完成度は低い。たとえば,本書の2章をよく理解できた読者は,あえて1章を読む必要がない。
1章(菊池誠)と2章(伊勢田哲治)が扱うのが,科学と疑似科学をめぐる問題である。科学哲学でいわれる「境界設定問題(科学と疑似科学は区別できるのか,できるとしていかなる基準で区別するのか,を扱う問題)」が念頭に置かれているが,2章の著者はすでにこの問題に対して,
『疑似科学と科学の哲学』
の中で一応の解答を示している。本章はこの解答をさらに深化させたものである。もちろん,上記の本を読んでいなくても理解出来るように書かれている。
2章に比べると,1章の出来はあまりよくない。そもそも何が言いたいのか,言い換えればどのような読者を想定しているのかが明らかではない。好意的に解釈すれば,
・自分は一応は「科学」側の人間だが,疑似科学(ニセ科学)のどこがいけないのか,理論武装しておきたい
という人に向けられていることになるのだろう。この意味で1章は,いわば身内に向けられたプロパガンダであって,見解を異にする人たち(「ニセ科学」側の人)を説得したり,"転向" させたりするだけの攻撃力を持っていない。それ自体は悪いことではないにしても,肝心なところを端折ったり,論点をすり替えたりしているので,結果的に高い評価はできない。
3章(松永和紀)と4章(平川秀幸)の関係も,1章と2章の関係とほぼ同様。ここでは,
・科学技術に関する正確で適切な情報を,非専門家も含めた一般社会で共有するにはどうしたら良いか
という問題について述べられている。
3章が具体例として紹介するのは,食用油「エコナ」出荷停止問題(2009年)と,遺伝子組換え食品に関する問題である。個別の事例に関する問題はそれなりに面白いが,生じた問題についてすべてマスコミの責任問題として論じているために,結果的に漠然とした主張となっている。たとえば105〜106ページで引用されている朝日新聞の記事は,事実を端的に報道しているだけで「誤報」や「偏向報道」と言えるようなものではない。もちろん全然問題ないというわけではないが,そもそも「事実を過不足なく伝達し,しかも誤読の余地が一切ない報道」というものが存在するのか? むしろここで問題とすべきなのは,読者(消費者)のリテラシーであると考えるのが素直だろう。原因の所在と責任の帰属を混同して,なんとなく叩きやすいところを叩いてお茶を濁すのは,いかにもジャーナリストらしい安直な態度だ。
4章が扱うのは「科学技術コミュニケーション」(p.156)の問題。今までの科学技術コミュニケーションは,専門家から市民への一方向の知識伝達に重点が置かれていたが,今後は双方向のコミュニケーションが重視されなければならない,というのが本章の趣旨である。なぜそんなことをする必要があるのか,具体的にどんな制度を構築するのか,といった点について詳しく述べられている。
4章については以下の本
戸田山和久『「科学的思考」のレッスン』
でもほぼ同内容のことが述べられていて(第2部),両方読めば理解が深まる。
巻末の付録(片瀬久美子)は,東日本大震災・原発事故の後にネット上に流れたデマや,これに便乗したあやしい商売を収集したもの。
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