幕府側には軍事顧問としてフランスが、薩摩側には英国がついていたのはよく知られていたが、まさか龍馬、桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文・・・といった日本の夜明けを切り開いた名高き志士達の多数が英国側の指導・支援を受け、ときには完全なスパイとなっていたとは・・・。
　　著者は公開資料に基づき、かなり蓋然性が高かっただろうということを羅列し、それらにやや長々とした説明を加え、創作も交え、本書を構成した。歴史学者から見たらまさに噴飯ものかもしれないが、逆に当時の英国の対日政策はそうでもしなければ大衆の目にさらされることはないし、外交機密は百年以上隠されることがよくあるので、本書を執筆した著者の勇気に拍手をとりあえず送りたい。
　　
　　最大の問題は、本書の細部や我田引水の主張にあるのではなく（誰もが知っている明治維新である以上、重箱の隅をつつくのは簡単）、品格のない文体とせっかく当時の世界情勢を巨視的にとらえているにもかかわらず、今ひとつフリーメーソンについての説明不足、および遠大な歴史的視野の欠如である。このままでは時の流行作家が“面白く幕末の裏舞台を暴露した”だけで終わってしまう。

　著者自身が書いているように、当時は最上層部以外、誰もが薩摩、幕府（しかも幾つか派閥あり）、英国、長州、土佐、朝廷などのスパイであり、現在のようなマスコミやインターネットがない以上、全体の状況・潮流把握は各藩、幕府、朝廷の死活問題でもあり、脱藩して動き回る下級武士達に情報を頼らざるをえなかった。ときに裏切り者と言われることはあっても、誰もがどこかの組織のスパイである以上、必ずしもそれは蔑称ではなかった。実際、英国提供（とくにグラバー経由）の資金がなければ、当時の日本は非常に貧しく革命資金など夢の夢であった。むしろ当時世界最先端の諸制度と技術を持ち、資金豊富で、現地重視の英国の連絡役になることを選んだ点で、志士達の明敏さはおおいに称賛されるべきである。幕府側も色々努力はするが、フランスを最初選んだ点で大きな戦略的誤りをしたのであり、流動資金の点でインドを背景にアヘン戦争等により膨大な潤沢資金を蔵していた英国とフランスは比べようもなかった。さらにもう一つ現在でさえ殆ど知られていないフランス側の植民地支配の重大欠陥は現地を管轄する最上層がいつもパリを見ており、英国植民地のように行政上の知識・制度が現地に根付かないことであった。フランス人から見れば英国人は田舎者であるが、逆に英国人は現地に骨をうずめる覚悟がある点で彼らよりはるかに優っており、幕末の志士達はまことによきパートナーを見出した。薩長側も英国側も討幕と自由貿易獲得という互助互恵の関係であったのである。その点、本書の冗長・貧弱な文体ではまるで英国が明治維新を率先して仕掛け、志士達はその単なる捨て駒であったと記し、志士達の憂国への熱情と誠意に対する敬意がまったく感じられない。薩英戦争にしても、英国に一目置かれるきっかけとなったはずだし、あの老獪な外交上手の英国がおそらく英国史上初めて一目置いたアジア（むしろ外国）の国は日本だったし、それがのちのち日英同盟の下地となっていく。むしろ日本が英国の一番弟子になったと考え（国も黎明期にはどこかのお世話になるし、開国期の日本に最大の融資をしてくれたのは英国）、一番弟子になれただけでも名誉であった。軽率な行為であったが、あの真珠湾攻撃の大成功でさえ、それを知って一番喜び、ひそかに祝杯をあげてくれたのは敵性国家の中では日本帝国海軍を長期にわたって育てた英国海軍の上級顧問団であり、フリーメーソンとは関係なく、日英関係は一般に思われているよりも深く長い。

　本書の後半は、むしろ目が回るほどであり、話半分にしても面白く、明治維新の革命準備はロンドン、パリ、ブリュッセルで用意されたと記述されている。どの頁もフリーメーソン中心に本書はできあがっているが、読者は面白さの余り、フリーメーソンの存在を過大評価も、過少評価してもならないように注意すべきである。まして安易な陰謀史観に陥るべきでなく、本書の執筆姿勢では巷に安っぽい陰謀史観論者を大量生産する危険がある。私自身、ベルギーにも、フランスにもやや長く住んだことはあるが、カトリックや王室を中心に反フリーメーソン勢力も当時は強大であったし、今ではフリメーソンだからといって特別視されることはまずない。彼らは米国では思うがまま勢力を伸ばしたが、ヨーロッパでの影響はやや限定的である。本書では秘儀めいたもの一杯のフリーメーソンを想定して描いているが、現在では親睦団体でないにしろ、昔ほどの旺盛な影響力はなく、そもそも欧米の知識人は議論しているうちにだいたいそちら系かどうかわかってくるし、左翼・右翼といった図式的な浅薄な理解になりやすいので、フリーメーソンだからといって迎合したり、すぐ拒絶したりすることは、本人の教養のなさを示すことになる。本書は、その点で誤解を人々に与えやすい。

　　本書は歴史読み物として読めば何も問題はなく、むしろ蒙を啓く点が多大にある。結局、日本が明治維新を英国からの支援で完遂させたというのは日英双方にとって一つの大きな外交的成果であり、日露戦争の勝利がそれに続く。それ以降、明らかに失敗したのは大陸、とくにドイツ重視の（日本陸軍の）外交方針であり、英米を離れた結果であった。現在でも中国大陸重視の地政学的に音痴な日本人が結構いるが、海洋重視＝＞最大多数の諸外国との交易の重視＝＞議会制（民主主義）の重視が健全な国の発展を促す。幕末の情報が殆どない時代にそうしたことをいち早く悟り、日本の行く道を誤らなかった志士達に深い敬意をもって私は本書を読み終えた。

　散る桜　明日咲く桜　同じ花
　　ますらおぶりは　永遠（とわ）に残れり