評伝 野上彌生子―迷路を抜けて森へ
1907年のデビュー以来、80年近く執筆活動を続け、『迷路』『秀吉』『森』といった傑作を残し、100歳を目前に亡くなるまで現役であった野上彌生子の評伝。
冒頭で作家・野上彌生子の誕生にかかわる文学の師・夏目漱石とのかかわりが描かれた後は、大分県臼杵での誕生から、東京での女学生時代、野上豊一郎との結婚生活や作家生活をほぼ時系列に沿って辿っている。
読みながら感じていたのは、野上彌生子が非常に恵まれていたということである。
何よりも、当時の日本人女性としてはほぼ最高の教育を受け、さらには東大出の英文学者・豊一郎と結婚した後は、家事よりも「勉強」という日々を送っていたことなどを読んでいくと、ただ驚くしかない。それでも、第二次世界大戦中には、食糧を蓄え、蔵書の一部を巧みに疎開させたりするようなしたたかさを持つと同時に、人の外見や出自や血統に拘ったことも描かれており、その作家活動や作品から受ける印象とは違う面も持っていたようである。
また、中勘助への初恋(著者は、豊一郎との結婚後と推定している)や68歳になってからの哲学者・田辺元と恋(豊一郎はその3年前に死去している)などを書簡や日記を丁寧に読みほぐしながら、細やかな筆致でその実相を浮かび上がらせている。そして、老年での恋愛もさることながら、70歳前後になっても彌生子が田辺に導かれながら哲学に対してかなり熱意を燃やしていたことやNHK教育テレビの語学講座をいくつも楽しみにしていたことなどを知ると、その強烈な“知”へ欲求には圧倒される。
その規則正しい執筆生活や作品に登場する人物たちの生活などを考えると、文壇での評価も含め芹澤光治良と近いものがあるような気がする。
『迷路』は個人的に好きな小説の一つだが、この作品は知名度などを考えると、奇妙なほど文芸評論家が取り上げない作品である(読売文学賞を受賞はしている)。完成からすでに半世紀以上経過しているが、私が知っている限り、学者の研究を除くと、真正面からこの作品を論じたのは篠田一士、加賀乙彦、ドナルド・キーンの3氏だけである(篠田や加賀も、この作品が論じられない不思議さを指摘している)。
この評伝を読み終えて、その状況がなぜに生まれたのか、納得がいった。一つは、野上彌生子が文壇の外にいたこと。もう一つは、19世紀のイギリス小説を範とした作品世界。そして、小説創作の根幹に徹底して“知性”が横たわっていたこと。おそらく、こういった文学作品を評価する“物差し”は日本ではまだ確立されていないということだろう。
なお、100ページに登場する英語学者・市河三喜は江戸時代の漢詩人・市河寛斎、その子で書家としても知られる米庵の子孫でもある。
中世騎士物語 (岩波文庫)
中世とは騎士道物語が全盛の時代なのですが、これは英国の古い作品(アーサー王物語やブリタニア列王史など、ケルト系を含めた神代の物語作品)をまとめて、文学作品として一貫性をもたせ、解説をつけたものです。
内容としてはよいものです。アーサー王伝説もよくまとまっており、また(原本が作られた当時では)最新のテクストであったマビノギオンも収録、物語として収められており、充実した内容となっています。
こういった作品に初めて触れるという人には格好の本だと思います。
ただ、何とかならないかと思うのが本の題名です。もとはThe Age of Chivalry(騎士の時代)というもので、騎士道がどういったものか、といったのをメインにすえたものです。内容も先述したように、マビノギオンやアーサー王伝説を含めて、いわゆる神代、つまり伝説的なものです。
しかし、中世に流行したものはこういった伝説だけをもとにしたものだけではありません。スペインのアマディス・デ・ガウラなど、時代背景、内容もさまざまな作品があります。つまり神話だけが騎士道物語ではないわけですが、この本にはそういった作品は収録されていません。ある意味看板に偽りありというわけです。この本では、騎士道物語の一端はうかがえるでしょうが、この本が収録しているものは、ドン・キホーテがほれ込んだ騎士道物語のあくまで端の部分だけであるということをこの題名はあらわしていないと思います。
ギリシア・ローマ神話―付インド・北欧神話 (岩波文庫)
1855年に出版された”The Age of Fable”(伝説の時代)という著作の邦訳。全訳ではなく、ギリシア・ローマ神話に北欧神話など少しのおまけをつけた前編の訳であり、後編は「中世騎士物語」として別に読むことができる。末尾の「改版にあたって」によると初版は1927年(昭和2年)となっているが、冒頭の、夏目漱石の手紙(「野上八重子様」になっている)は大正2年(1913年)のものである(訳者は1885年生まれなのでまだ20代!)。「巻末に」の記述からも、初訳は1913年に上梓されたはずである。ともあれ最終版は1978年、90歳を超えてなお矍鑠たる文章を残した彼女の才気には恐れ入る。
小説家の訳であるが、衒いのない平易な文章であり、表記等にわずかの乱れを残すものの、素晴らしい本である。ギリシア(ローマ)神話はヨーロッパ知識階級の常識であり(医学者の記述を見る限り結構怪しい人もあるようだが)、ヨーロッパ文化を知るのにその知識は欠かせない。私としては、ここ数年エジプト史に親しんだ折に、ギリシア神話を何とかモノにしたいという積年の願望を芝崎みゆき「古代ギリシアがんちく図鑑」を入門書として(他にも何冊かの本を読んで)ようやく叶えた、その予備知識を元にして挑んだが、レベルとしてはちょうどよかった。まったく何の準備もなく読んでも十分に理解できる文章ではあるが、神々のつながりや背景が必ずしも懇切に説明されているわけではないから、初心者はまず他の本から始めるのがよいと思う。
但し、「その他の神話」部分はかなり投げやりな印象である。エジプト神話は杜撰の極致、また、キリスト教の立場からの言及が目立つようになり、著者の本性がほの見えている。ギリシア・ローマ神話では淡々と記述していたのに、ヨーロッパ本流を離れた途端に差別意識が前に出たのか。